浄土真宗本願寺派じょうどしんしゅうほんがんじは 夕谷山ゆうこくさん 西信寺さいしんじ縁起

夕谷山西信寺は、元歴・文治年間(1184~90)年に、地頭吉川経兼の寄進を受け、黒谷の法然上人(浄土宗)の高弟信寂上人(親鸞聖人の兄弟子)により、朝日山東麓に開かれた念仏坊舎の一つ。相次ぐ戦火で一坊のみ残り西坊と称せられている。

その後、廃寺状態になるも、弘治元年(1555年)西坊の土地を和久に移し、浄土真宗寺院として再興。昭和14年(1939年)西信寺と改称。浄土真宗本願寺派に属する寺院ですが、元、浄土宗胚胎期以来の歴史ある寺院である。

歴代住職の法名

開基 信寂2代 顕寂3代 顕実4代 了春
5代 了念6代 了順7代 了観8代 了明
9代 了証10代 了門11代 了教12代 教誓
13代 了説14代 了閑15代 了瑞16代 了泰
17代 了現18代 泰了19代 義了20代 照了
21代 了隠22代 春満23代 一心

信寂上人について、おもしろい話が載っていますのでご紹介いたしましょう。【兵庫県揖保郡太子町のホームページより】

中世播磨の地誌『峯相記(みねあいき)』によると…

文治年中(1185~90)、室津の長者の家に、一人のみすぼらしい老法師が、召し使われていました。その頃、この長者は古今和歌集を書き写していましたが、仮名文字は書けるのですが漢字を書くことができず、誰に書いてもらおうかなぁと思いながら、空けておいていました。

書き込まれた文字

そんなある日、他所から帰ってくると、すばらしい筆跡で書き込まれてあるのです。誰が書いたのか、考えても思い当たる人はいません。内で召し使っている下女が、あの老法師がそっとやってきて何か書いていたようだといいましたが、そんなことはないだろうと不思議に思っていました。

そうした時に、新しく福井荘の地頭になった吉川氏が室津へ遊びに来ました。そしてこの老法師を見つけると、たいそう敬い、手を合わせて拝んでいるのです。そこでこの老法師が誰なのかを尋ねると、この人こそ法然上人の高弟・信寂上人で、京から姿を隠されていたのです、というではありませんか。

老法師の正体

上人はしきりに否定されていましたが、やがて福井荘に招かれ、朝日山の東の麓に造ったお堂に住んで、人々の信仰を集められました。浄土宗に播磨義という流れ(一派)がありますが、それがこの上人の流れで、その後、顕寂上人、顕実上人と引き継がれていきます。

鎌倉時代の後半ころ、この信寂上人の流れを汲んで播磨は、浄土宗が中心にありました。しかし、浄土宗は衰退していき、かわって禅宗(臨済宗)が広がっていったそうです。浄土真宗が、隆興するのは、おそらく第八代本願寺門主蓮如 (1415 – 1499)以降だと思われます。西坊(西信寺)がいつ頃、浄土宗の寺院から浄土真宗の寺院に改宗したのか、調べてみようと思います。

合掌 南無阿弥陀仏

追記:どうして、信寂さんが室津辺りに居たのかと云いますと、浄土宗ご開山法然上人が四国に流罪になられた時、京都から室津までご同行されたからであると言われております。


春夏秋冬、いつでもお待ちしております。(クリックで1枚ずつご覧いただけます。)