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ちがいがあっても輝きあえる
大阪府豊中市 浄久寺 森 祐真
私たちが生きる世の中は、いつでも勝ちか負けか、優れているか劣っているか、そのような「モノサシで測られている」ような窮屈さを感じます。そんな世間の中に身を置いていると、時には人と比べて劣等感を感じたり、落ち込んだり、心を擦り減らすことも少なくありません。けれども、仏さまのモノサシは違います。そこでは全てのいのちが比べられることなく受け容れられ、違いあるままに輝き合える世界とお聞きします。
本願寺第十七代宗主・法如上人は、阿弥陀さまの比べないおこころを次のようにお示しになります。
鶴の足の長きをも 鴨の足の短きをも からすの羽の黒きをも
鷺の羽の白きをも 白きを染むるにあらず 黒きをさらすにあらず
短きをつぐにあらず 長きを切るにあらず 黒きは黒なり 白きは白きなり
阿弥陀さまは、足の短い鴨に「鶴のように足を長くしてから来なさい」とも、羽が黒いカラスに対し、「鷺のように羽を白くさらしておいで」とも仰いません。違いがあれど、それぞれのいのちをそのまま抱きとめてくださる仏さまです。
『歎異抄』には「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」とあります。これは老いも若きも一切のいのちを選ばない嫌わない阿弥陀さまのおこころを表しますが、これは決して「あのおじいさんも、あの赤ん坊も…」と他人を眺める話ではないと教えていただきました。お聴聞はいつでも私に向けてのものと聞いていくものなのです。それは、まさに私が幼いときも、年老いたときも、晴れやかな笑顔のときも、涙に曇るときも、いついかなる状況であっても阿弥陀さまに見放されることはないということです。
「ちがいがあっても輝きあえる」という言葉を私の人生に照らして味わうなら、どんなときの私にも必ず居場所が与えられているということです。どれほど情けなくとも、この身はすでに阿弥陀さまに抱かれた、お慈悲に包まれたいのちであり、やがてこの世の縁尽きるときに、お浄土の仏と生まれる仏の子の存在なのです。だからこそ、世間の評価に翻弄されながらであっても、傲慢になったり卑屈になったりすることなく、胸を張って生きていける安心が恵まれます。私の生きる今ここが大きなお慈悲のど真ん中です。
大阪府豊中市 浄久寺 森 祐真



