昭和初期の国鉄網干駅北 9月28日

釋一心のひとこと

先日、三田総代さまより、昭和初期の網干駅北周辺の地図(写)をいただきましたので、ご紹介いたします。コレは興味津々でございます。

総代さま(戦後生まれ)によりますと….. 昔々、鉄道が通る前は和久町は、南側だけで、駅前は人家がちらほらで田んぼばっかり👉鉄道が通ってから、駅の乗降口が北側だけで、南は無し。段々、北側にお店が出来、うどん屋、銀行、旅館等店舗が増えて家も増加して、人数も南より多くなった。👉自治会を別に。いつ頃かは?です。ワテの幼少のみぎりは既に別だったと思います。但し、荒神社⛩️、屋台蔵は和久(南)にありました。(北)の駅前にあるのは、お墓です。駅北はお店沢山! 南は田んぼ、どん百姓ばっかりでした。😆🎵🎵(総代さん筆)

じっくり見てみますと、駅付近には、銀行(4行)、旅館、郵便局、料理旅館、寿司屋、うどん屋(9店)駄菓子屋、八百屋さん、タバコ屋、床屋さん、食堂、ハイヤー、カフェ、医院、小料理屋、駅弁屋、骨つぎ、団子屋、素麺組合、下駄屋、ポンプ屋、餅屋、本田酒店、荒物店、精肉店、製粉所、ブリキ屋、自転車屋、提灯屋、箱屋、鐵工所、煉炭工場、靴屋、精米所、運送屋、うなぎ小屋等々、多種多様なお店が並んでいます。今よりもはるかに賑やかで繁栄していた様子がうかがえます。うどん屋さんの多さには驚きです! 播電鉄道(ばんでんてつどう)1909年1月1日〜廃止1934年12月15日が記載されていますから、昭和9年以前の地図なのかなぁと推測できます。播電の詳細は👇に。播電ですが、乗車したことがある人は、もうこの世にいらっしゃらないかもしれません。新宮⇄龍野⇄糸井⇄網干駅前⇄網干港。今もこの電鉄が存在していたなら、新宮/龍野との往来で、網干駅は量り知れない繁栄をもたらしていたかもしれません。今もところどころに、線路の名残🛤が…廃線は、本当に残念ですね…

播電鉄道 – Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E9%9B%BB%E9%89%84%E9%81%93

昔の方が駅前は賑やかであったことがわかりました。残念ながら、いまは駐車場ばっかり。昭和の初め、さぞかし活気があり楽しかったんだろうなぁ〜って羨ましくおもいます。 世の中、栄枯盛衰の繰り返しでございます。合掌 南無阿弥陀仏

拡大図👇です