九月のカレンダー『帰去来』9月4日

釋一心のひとこと

帰去来…「ききょらい」「いざいなん」「かえんなん」「さあ、帰ろう」色々な読み方があります。学校で習いました。懐かしいですね。

①『帰去来(ききょらい)辞 陶淵明』

陶潜(365-427)。字は淵明。東晋の末期に潯陽(江西省九江)の中流貴族の家に生まれる。29歳ではじめて任官し、以後、断続的に役人生活を続けるも、家柄のため出世はかなわず、人と折り合いがつかず、しだいに故郷の田園に帰りたいと思うようになります。

陶潜が彭沢(ほうたく)県の県令であった時、査察官が来るので正装して迎えよと指示が出ます。しかもその査察官は陶潜の同郷の若造でした。つのる屈辱感。陶潜は「われ五斗米の為に膝を屈して小人に向かう能わず(わずかな給料のためにくだらないヤツにへーこらできるかよ)」といって、その場で官を辞し、故郷の田園に向かいました。41歳でした。「帰去来の辞」はその時の思いを歌った詩です。都会の厳しい役所生活を辞め、田園のある懐かしい故郷へ。帰るべき故郷がなく、都会で朽ち果てていく人もいらっしゃいます。

陶潜はその後20年あまりの生涯を故郷の潯陽に過ごし、田園生活を詩にあらわし、田園詩人、隠遁詩人としての名声をはくしました。素朴で地味な作風は当時の貴族社会からは評価されませんでしたが、唐代に入ってから評価が高まりました。(Wikipedia)

②『帰去来(いざいなん)中国の善導大師』

帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。(教行信証・証巻・定善義より引文・浄土真宗聖典(註釈版)P312)

現代語訳
さあ帰ろう、迷いの世界にとどまるべきではない。はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変わり死に変りし続けてきた。どこにも何の楽しみもなく、ただ嘆き悲しみの声ばかりである。この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう。(本願寺ホームページ)

阿弥陀仏がただ今救う、と呼びかけておられます。我々は仏教の基本を学びに人間界に生まれてきたのではありません。生死を離れて、浄土に往生するためです。この悩み多き六道輪廻から離れて、極楽浄土にいざいなん…と

南無阿弥陀佛 合掌

追伸、我々阿弥陀さまのお蔭で、心やすまる故郷のような帰るべき懐かしい場所があるのでございます。今まさに、心の準備をしてくださいね😆さあ、帰ろう!