ご開基 信寂上人
ホームページの西信寺の歴史の中に、ご開基信寂上人について、触れております。
信寂上人について、おもしろい話が載っていますのでご紹介いたしましょう。【兵庫県揖保郡太子町のホームページより】
中世播磨の地誌『峯相記(みねあいき)』によると…
文治年中(1185~90)、室津の長者の家に、一人のみすぼらしい老法師が、召し使われていました。その頃、この長者は古今和歌集を書き写していましたが、仮名文字は書けるのですが漢字を書くことができず、誰に書いてもらおうかなぁと思いながら、空けておいていました。そんなある日、他所から帰ってくると、すばらしい筆跡で書き込まれてあるのです。誰が書いたのか、考えても思い当たる人はいません。内で召し使っている下女が、あの老法師がそっとやってきて何か書いていたようだといいましたが、そんなことはないだろうと不思議に思っていました。
そうした時に、新しく福井荘の地頭になった吉川氏が室津へ遊びに来ました。そしてこの老法師を見つけると、たいそう敬い、手を合わせて拝んでいるのです。そこでこの老法師が誰なのかを尋ねると、この人こそ法然上人の高弟・信寂上人で、京から姿を隠されていたのです、というではありませんか。
上人はしきりに否定されていましたが、やがて福井荘に招かれ、朝日山の東の麓に造ったお堂に住んで、人々の信仰を集められました。浄土宗に播磨義という流れ(一派)がありますが、それがこの上人の流れで、その後、顕寂上人、顕実上人と引き継がれていきます。

鎌倉時代の後半ころ、この信寂上人の流れを汲んで播磨は、浄土宗が中心にありました。しかし、浄土宗は衰退していき、かわって禅宗(臨済宗)が広がっていったそうです。浄土真宗が、隆興するのは、おそらく第八代本願寺門主蓮如 (1415 – 1499)以降だと思われます。
西坊(西信寺)がいつ頃、浄土宗の寺院から浄土真宗の寺院に改宗したのか、調べてみようと思います。合掌 南無阿弥陀仏
追記
どうして、信寂さんが室津辺りに居たのかと云いますと、浄土宗ご開山法然上人が四国に流罪になられた時、京都から室津までご同行されたからであると言われております。
⭐️【承元の法難】
中世(鎌倉時代)、1207年(建永2年、承元元年)、後鳥羽上皇により、法然(ほうねん)の専修念仏弾圧事件が起こりました。法然(75歳)は四国(土佐、実際は讃岐、香川)に、弟子の親鸞(しんらん)は越後(新潟)に流罪、また、安楽、住蓮含む弟子4名が死罪となりました。


